劇団俳優座にて、瀬戸山美咲さん作・演出の「PERFECT」を観劇。
本作品を貫くテーマの一つは、「出生前診断」であるが、このテーマについては、どうしても自分語りになってしまう。
私の妹は、ダウン症であり、先天的に心臓病を持ってこの世に生を受けた。従って、私はこの作品のテーマに対し、極めて当事者性が強い。
「障害」というテーマ。もしお腹の中にいる子どもの障害が、生まれる前に分かったら、その後どう考え行動するか。このテーマは、実に、私の人生においてずっと影を落とし続けてきた。私は、最近になって、「きょうだい児」という言葉を知った。きょうだい児とは、障害や難病を持つ兄弟・姉妹がいる子どものことである。私が子どもの頃には、このような言葉や概念はなかったと思う。だが、私は子どものころからずっと、きょうだい児であったのだ。
「きょうだい児」として、障害を持つ子供を育てるということが、決して綺麗事ではいかないという現実を肌身で知っていること。杞憂かもしれないし、大した科学的知見も学んでいないが、親が同じなのだから、もしかしたら遺伝的な問題があるかもしれないということ。すなわち、私が子どもをもうけるとしても、同じような障害を持つ子どもが生まれる可能性は、「普通」(この普通はもちろんかぎかっこ付きである)よりも高いのかもしれないこと。そういったことは、私にとって、根の深いところで恐怖であり続けた。
それが、私を、子どもを持つという考え、結婚、また、そもそも恋愛をすることからすらも、遠ざけ続けた。
ある時、しなければという焦りに駆られて結婚相談所で「婚活」を始めた。しかしそれでもなお、その根源的な恐れから、私は解かれていなかった。
平たく言うと、子どもをもたない。あるいは、子どもをもつにしても、出生前診断をしてほしい。その結果によっては、かの選択肢も、選択肢の一つとして選びうるものとして、相談するかもしれない。殺人だと言われても仕方がない。障害者の差別だと言われても仕方がない。障害者の兄なのに。でも私は、障害の、難病の、綺麗事ではない現実を知っている。それを経験してきた。私は、あなたと、生まれてくる未来の子どもを、私が子どもの頃に経験したような辛さや苦労に巻き込みたくない。そのためには、綺麗事だって、かなぐり捨てる。
所詮「婚活」という、造作された場なのだ。もしお付き合いを深めていき、本格的に将来のことを語り合う時がきたら、その時、この話は必ずしなければいけない話なのだ。
そのため、私はつとめて、「マッチング」してお付き合いが始まった早めのタイミングで、この話を伝えてきた。多くの女性は、やはり子供は「普通に」ほしい、あるいは婚活の場でそんなことは考えたくない、重たい話なんてしたくないと思い、その後の深いお付き合いに至る前に去っていった。
それでもなお、お付き合いできた女性がいた。彼女も「普通に」子どもを授かり、「普通の」家庭を築きたい人であった。私は変わらず恐怖を抱えていた。それでも、「もしかしたら彼女との関係は、それを乗り越えるに値するかもしれない」、「私は、彼女との付き合いを通じて、自分を変えていけるのかもしれない」。彼女は、そう思わせてくれる人であった。
私は自分の思っていることを、お付き合いの途中で話した。彼女は、私の「異常な」話も、静かに聴いてくれた。
私は、自分の「子どもをもつ」という恐怖を強引にでも握り潰して彼女と結婚し、彼女の希望を叶え、子どもを持つ未来を描くのか、自分の思う「子どもをもつリスク」を、「普通に子どもが欲しい」彼女に納得させるのか、天秤にかけていた。天秤は拮抗していた。そして、私は、自分の「子どもをもつという恐怖」を乗り越えること、打ち克つことこそが「愛」なんだと、自分と彼女に言い聞かせ、拮抗して動かない天秤を操作しようとしていた。今なら冷静に語ることができるが、こんな天秤の操作は「重たい」に決まっている。最終的には、彼女は私を離れていった。
私は、子どもをもうけるのか。子どもをもうけるにあたって、誰かといわゆる「家族」という名のパートナーシップを築くのか。今でも答えは出ていない。出さないでいい状況を作っているからだ。だから答えが出ていなくて当然なのだ。
同年代の友人が結婚し、子どもをもうけ、「家族」を新しくつくっていくなかで、私は、ひたすらに仕事に打ち込み、自分のビジネス、自分のプロフェッションを追求した。
「PERFECT」の中の登場人物で、河西という人物が登場する。登場時点では、番組制作スタッフの一員であり、音声係という仕事に徹しているだけに見える人物である。最初の印象は飄飄とした人物である。劇中、河西は、兄がダウン症であると明かす。そして、その後の物語――青木夫婦の夫婦間の対話に、一石を投じる役を担う。
私は、観劇中、登場人物で私の境遇に一番近いのは河西だと思い、彼と自分とを重ね合わせながら観ていた。
彼は、劇中に登場するボリビアのチョビ髭のオジサン姿の福の神、エケコ人形になぞらえて、こういうことを言う。「自分はこのオジサンに願いを叶えてもらうより、むしろ、自分がこのオジサンでありたい。」。
私は、河西と自分を重ね合わせて観ていたからこそ、このセリフにはドキリとさせられるものがあった。
オジサンは誰かのためになることをする。誰かにとっての福の神となり、願いをかなえてあげる。しかし、それは完全に慈善活動というわけでもなく、きっちりちゃっかり、タバコという「報酬」も貰うものであることが示唆されていたからだ。
私は、ビジネスを通じて世の中に貢献し、きっちりと高い報酬も要求する「ゲーム」を、これまでも楽しんできた。それは、私にとって、恋愛という営みや、結婚、家族という営みをする代わりに、十分なりえるものだ。実際のところ、「やるのがそこそこ得意だ」ということと、「やったら成果が返ってくる環境がある」という二つの条件がそろっているというのは、私にとって幸いなことだ。だから、私はビジネスというゲームに前向きにのめりこんできた。
ドキリとしたというのは、仕事に真面目な様子の河西に、自分の姿勢を言い当てられてしまったような気がしたからだ。
本当はわかっている。「私が仕事に前向きだ」というのは、「ビジネスパーソンとしての優秀さ」をすなわち意味するのではない。私が仕事に前向きなのは、単に、仕事をしている間は、それ以外の恐怖に目を向けなくて済むからだ、と。仕事は、時として憂鬱だ。だが、その憂鬱さがどうしても必要なのだ 。
歳を重ねていくなかで、別の恐怖がわきあがってくる。いつまで憂鬱でいられるのかな。いつまで憂鬱でいさせてくれるのかな。仕事から引退したら、何を生きがいにしたらいいのだろ。結婚もしなかったら。結局子どもも生涯もたなかったら。今はいいけど、仕事にやりがいを感じなくなるときがやってきたら、どうするのかな。
でも、それでいいんだよね。そういう恐怖がわきあがるってこと、それ自体、それでいいんだよね。そういう恐怖がわきあがる時点まで、走りぬけてきたのだからね。最近になってやっと、そう思えるようになってきた。
積み重ねた過去の判断から作られた現在は、常に「完璧 」である。
私がもう少し若かったら、「PERFECT」に通底するこのメッセージを、受信できなかったかもしれない。
積み重ねた過去の判断から作られた現在は、常に「完璧 」である。そのことをまず認めることから、未来を始めることである。
積み重ねた過去を断ち切って「完璧 」を目指すという「革新への覚悟」は、「諦め」がその正体をカモフラージュした姿であることが、時としてあること。威勢のよさ、勢い、「正論」に注意すること。
私はこの作品を通じてそんなメッセージを受け取った。
また、「天秤」の両端に掛けるものを変えずに、強引に片方を操作しようとして誤った経験のある私には、河西の、「天秤に掛けるものを変えてみたら」というアイデアは、極めてプラクティカルな助言ともなった。
結果は、出すものではない。
結果は、すでに出ているものである。そして、出続けているものなのである。そしてそれらは、「完璧 」なのである。さて、それを前提として、この不格好な人生、どうやって腐らず前向きに走り抜けていくか。結果はその先に「出る」ものであるはずだ。
自分にとって、よいタイミングでこの作品に出合い、観ることをできたことを、幸運に思う。この作品を創っていただいた瀬戸山さん、俳優の皆さん、その他関係者の皆さんに感謝を申し上げたい。
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