なぜ学ぶのか。
学びは、人を自由にすると、私は信じています。
学べば学ぶほど、知見は広がり、できることも広がり、やれることの幅が広がる。つまり、人生における選択肢が増え、人生における可能性が広がります。
もし学ばないなら、知見は狭く、できることも狭く、やれることも今と変わらないままです。もし、今やっている仕事が嫌だったり、正直辞めたいと思っていたりしても、選択肢の少なさゆえに、それをやらざるを得ない、という状況に閉じこめられ続けることになります。
私は後者のような人生を送るのは嫌です。
私は自由でありたい。だから、学ぶんです。私にとって、学ばないなんて選択肢は、ないんです。
――という趣旨の話を、外資系コンサルティング会社にいたころに、同僚にしたことがある。
その会社で働いているときのことだ。同僚の一人が、退職することになった。彼女が退職の挨拶で、私の話したこの話を、これまでで印象に残っていることの一つだとして話してくれたのを覚えている。彼女は、「学ぶということの意義・理由をうまく言葉にできなかったのが、私の話によってクリアになった」「子どもに対しても、学ぶことの意義を伝えたい」と言った。
光栄だ、と思うのと同時に、少しかたじけなかった。ほんの少しの間だけ同僚であっただけの私の言葉が、お子さんにも教育論として伝えられてしまうとは。なんだか気恥ずかしいような、責任があるような。でも、私は、本当に言ったようなことをそう思っているのであって、それが響いたのであれば、どうぞ、使ってください。――やっぱりちょっと恥ずかしいけれど。
けれども。この「なぜ学ぶのか」への私の回答が、誰かの心に響いたのだとしても。それでもなお、私は問い続けたい。なぜ学ぶのかの答えは、「それだけ」なんだろうかと。
◆
私は、今38歳である。一体あとどれだけの年月が、神さまから私に与えられた時間なのかは、私の知ったところではない。だが、感覚的には、「人生の中間地点は過ぎた、あとは折り返しだ」と私は思っている。(こればかりは感覚論なので、自分の中にしかその理屈はないが。)
さて、齢四十も近くになって、ひしひしと感じているのは、新しいものやことを学ぶことへに必要となるエネルギーの大きさが、指数関数的に大きくなっていくということだ。
原理的に考えて、年齢を重ねるほど、新しく学んだことの可用期間は減っていく。
例えば、20代で英語を必死に勉強して、ビジネスで不自由無いくらいの水準に達したとする。その能力を、ビジネスから引退する70代まで使える、とする。
英語の能力を活用できるのは、上の仮定と変わらず、引退する70代までだとすると、50代で英語を必死に勉強して、不自由ない英語力を獲得したとしても、汗水を垂らして新しく学んだことから得られる<利益>を享受できる期間は、20代の時に比べてグンと短くなる。
<労力>と<利益>を天秤にかける皮算用は、ビジネスパーソンなら毎日やっていることだ。人生、中間地点も過ぎてしまえば、<労力>と<利益>を天秤にかける合理性、合理的思考こそが、何かを新しく学ぶことを、遠ざける(A)。
また、これは仮説にすぎないが(そこらへんの科学的エビデンスについて詳しくないので、感覚論に過ぎないが)、やはり齢四十も近くなってくると、集中力は若いころに比べて劣ってくるように思う。自分で思い出しても、私の10代のころの集中力は、確かに高かった。それに比べると、持続性が劣ってきている感覚がある。身体的な限界、という問題がここに付きまとう。
また、身体的な阻害要因以外にも、時代が進んだこと、我々を取り巻くテクノロジーと文化の問題もあると思う。たとえば、携帯がなかったころから、携帯が当たり前の時代へ、ガラケーからスマホの時代へ、どんどん時代は進んできた。
こちらの能動性とは関係なく、完全にあちらのペースで、LINEはピコピコ鳴り、スマホは震える。ただひたすらに、24時間、「繋がっている」状態が、作りだされている。
能動的な行為のはずなのに、能動的ではない、のような、我々をゾンビみたいにする技術もあふれている。本当にどうでもいいのに、ショート動画を上にスワイプし続けて、いつの間にか頭の中が、人のことを中毒にするのに特化した音楽みたいなのでいっぱいになっている。集中力という希少なエネルギーは、どんどんと頭のいい技術者とビジネスパーソンによって、浸食されていく。
つまるところ、身体的な制約から考えても、我々を取り巻く環境から考えても、新しく何かを学ぶためのエネルギーである集中力は、減衰し続ける。新しく何かを学ぶための<労力>、コストは、歳をとるごとに増していく(B)。
また、齢四十も近くなると、会社なり社会なりで、ある程度の地位と報酬を得ている人口の割合も高くなってくるだろう。私もそれなりに会社員というものを続け、キャリアを重ねてきた。それなりの職位とそれなりの年俸をもらっている。そして、現在の職位と年俸をいただく基礎を作ったのは、間違いなく「勉強」だった。もっと若いころは、私はしょうもなく弱い立場と、満足のいかない年俸に甘んじていた。それに強い劣等感があった。強い劣等感が、私を「学び」へ駆り立てた。ギラついていた。キモいくらいに勉強した。そして、何社かを経験しながら、ある程度の立場と、報酬を得られるようになった。これは私だけの話ではないはずだ。「不足感」「不満足」は強いエネルギーを生み出す。とするなら、「充足感」「満足」は、何かを新しく学ぶエネルギーの減衰の要因になり得るのではないか。
「足るを知る」という古の賢人の言葉が、それっぽく<大人>に語り掛ける。これ以上、もう何を望むというのだ? <労力>と<利益>を天秤にかけて、「これ以上」を望むより、「今のこれ」を守り続けるほうが「いい」と考えられるとき、合理的に考えて、どうして汗水たらして学んで、「これ以上」を望む必要があるのだろうか (C) ?
A―「学び」から得られる<利益>の受益期間の減少
B―「学び」をするのにかかる<労力>の増加
C―「これ以上」を望む理由の減衰
少し考えただけでも、この三つくらいの要因が思いつく。そしてこういった複数の要因が複合的に絡み合った結果、新しいものやことを学ぶことへに必要となるエネルギーの大きさは、「一次関数的に」どころではなく、「指数関数的に」大きくなる。
このようにして、「学ばない理由」は、人生の後半になればなるほど、合理的かつ指数関数的に、積みあがっていく。
◆
何が言いたいのかというと、「なぜ学ぶのか」への回答を、もし、職業人生を優位に送るための利得を念頭に置いたもののみに限るなら、その回答の合理性には遅かれ早かれ限度が来るだろう、ということだ。
思うに、私がこの投稿の冒頭で言っていたような「なぜ学ぶのか」の理由は、子どもや、20代の若いビジネスパーソンには有用かもしれない。
A―「学び」から得られる<利益>の受益期間が長く、
B―「学び」をするのにかかる<労力>も壮年層・老年層に比べたら比較的少なく、
C―現状に飽き足らず「これ以上」を望む理由もたくさんある
からだ。
しかし、その「学ぶ理由」だけでいいのか。その「学ぶ理由」だけだったら、いつか、「学ばない理由」のほうが、「学ぶ理由」のほうを上回り、打倒するときが来るかもしれない。そして、感覚的にしか言えないが、私にとっては人生の折り返し地点だと思っている<今>が、「学ばない理由」のほうが、「学ぶ理由」のほうを打倒するタイミングなのではないか。そんな気がするのだ。私は、学ぶのが比較的好きな方だし、得意な方でもあるという自覚がある。しかしそれでもなお、利得への期待のみに立脚した「学び」は、もう早晩通じなくなるだろう。そういう感覚が自分の中にあるのだ。
◆
以上の危機感を踏まえて、38歳時点での、「なぜ学ぶのか」への暫定的な答え。
私は、毎日世界と出会いなおしたい。毎日新しい眼鏡をかけて、世界を新鮮な見方で見たい。今日も明日も明後日も、見える世界が同じなのは退屈だ。新しいことを学ぶこと、知っている学びをさらに深めることは、世界をこれまでなかった切り口で見るための視座を与え続けてくれる。あたり前じゃない世界に、毎日驚いていたい。だから私は学ぶんです。
利得と合理性の殻を突き破り、狂気と非合理の彼方へ、私は行きたい。たぶんその先は、利得と合理性の世界よりは、わりと愉快な世界なんじゃないかな。
これが私の暫定的な答えです。
さて、私の話が印象深いと言ってくれた元同僚の彼女は、どうやったらこの文を読んでくれるのかな。
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