2025/06/09

投げる/projeter

会社において、とある大きなプロジェクトの、プロジェクト・マネジメント・オフィスという、プロジェクト・マネジャーの補佐をやっている。

プロジェクトというものが往々にしてそうであるように、私が携わっているこのプロジェクトも、「未知との戦いの連続」である。「未知との戦いの連続」と表現するのはあまりにも「きれい過ぎる」だろうか。「格好良すぎる」だろうか。まあ、実際のところは、そんなにきれいなものでも、格好良いものでもない。

プロジェクトが動き始めたとき、明確なゴールなどは決まっていない。決まっているわけがない。なぜなら、プロジェクト・マネジャーをやることになる人よりもはるかに上層から大方針が下りてきて、その大方針がそのまま「なんとなく」「ゴールのようなもの」となって始まるからだ。プロジェクト・マネジャーは、ある日それをやってくれと言われ、巻き込まれる。方針とゴールは厳密には別物のはずだ。しかし、それに異議を唱える間もなく、プロジェクトは、巻き込まれる人が、望むと望まざるとにかかわらず、宿命として、始まってしまう。明確なゴールも、そこへたどり着く道も見えない。動けというプレッシャーはとにかく、来る。実際、とにかく動いてみないと、何もわからない。そして、動いているうちに、自ら動いた結果、また、自らの動きとはまったく関係のない外からの圧により、そもそも蜃気楼のようなゴールポストが、さらに動き続ける。

こういったプロジェクトの「格好の悪い現実」に対して、「最初からちゃんと決まっていないのが悪い」「だからうまく進められない」と愚痴をこぼすのは、あまりにも簡単なことだ。私も10年前の若造であったら、おそらく愚痴ばかり言う役になっていたかもしれない。若造は、実に頭でっかちで、実践と実際を知らなかった。英語圏の書物を読み漁り、体系的なプロジェクトマネジメント理論やら、ガント・チャートやらWBSといったツールや方法やら、論理的で洗練されたアイデアにかぶれた。勉強するほどに、目からうろこが落ちて、理想は高くなる。その高くなった「理想」という視座からすれば、プロジェクトというものは、美しく、整然とこなされるべきものに他ならず、そうなっていないプロジェクトというものは、理論から外れたまがいものに他ならなかった。

勉強する過程で、何気なく読んだ本があった。『予定通り進まないプロジェクトの進め方』という本だった。「プロジェクトとは、そもそもうまくいかないようにできているものである」「やったことのない仕事の“勝利条件”は事前には決められないのである」「だからこそ、進行の局面局面において、現時点において設定している“勝利条件”と“中間目標”そして“施策”とのつながりをマップとして図示し、常に振り返り、更新し続けよ」――本は、プロジェクトの「格好悪い現実」を踏まえて、こう説いていた。

読んだ当初、正直私はピンとこなかった。なんで、局面局面でそんなに振り返ったり、図(著者はプロジェクト譜、略してプ譜と呼んでいる)を書き換えたりしないといけないのだ。それはあまりにも非効率なのではないか。非効率なのはなぜか。所詮計画がない「まがいもの」であるからだ。その時はそう思った。だから、私はこの本を売り払ってしまい、しばらくこの本のことを忘れていた。

様々な学びに言えることだと思うが、時が満ちてやっと受け入れられるようになるものというのは存在する。実際のところ、私がこの本を思い出したのは、冒頭に書いたプロジェクトに携わることになったからだ。私の前にある現実は、「そもそもうまくいかないようにできている、しかしそれでもなお「うまくいく」を定義し、「うまくいく」にむけて動かなければならぬ」プロジェクトだった。そこには、洗練さも格好良さもない。しかし、それは「まがいもの」ではなく、本当のこととして、まさに関係者の前に現前していたのである。愚痴をこぼしている暇などなかった。そして私は再びこの本を手に取ったのだった。


「お願いだから教えてほしいの。私はここからどっちの道に行くべき?」
アリスはチェシャ猫に尋ねました。
「それは君がどこに行きたいかによるね」
とチェシャ猫。
「どこに行きたいかなんてどうでもいいの――」
「それなら、どこに行こうとも問題ないじゃないか」
「――「どこか」に行けさえすればどこでもいいの」
「おや、そうかい。それなら、ただずっと歩いて行けば、必ず「どこか」へはたどり着くはずさ」

「不思議の国のアリス」のチェシャ猫のすっとぼけが私は大好きである。さて、この話をクライアントとコンサルタントの話に置き換えたとき、チェシャ猫とは「のらくらした不親切なコンサルタント」で、アリスとは「迷えるクライアント」なのだろうか?

クライアントは実際のところ、自分がどこへ行きたいのか、何を目指しているのか、きちんと言語化できていないことが往々にしてある。コンサルタントは、クライアントのことをクライアントよりも考え抜き、クライアントの「行きたい場所」を言語化し仮説としてぶつける。そういう世界観に立つならば、チェシャ猫はコンサルティングワークを放棄している、ということになる。しかしながら、比喩はそんなに簡単ではないと思う。

「チェシャ猫は、自分の考えるアリスの「行くべき道」を押し付けなかった。あくまでアリスから内発的に「行きたい場所」が発されるまで、自分のエゴを押し付けない、アリスの主体性を信じたコーチであった。」

という解釈が一つ、ありうるだろう。これは、確かにもっともらしく、説明も付けられそうだ。

だが、コンサルタントとして、クライアントとともに悩み抜き、ともに行動するなかで、私にはなにかしっくりくる解釈がある。

「コンサルタントは、アリスでもある。」

コンサルタントだって、最初から、明快な答えやゴールがわかるわけではない。不思議の国にいる。不思議の国の森の中にいる。今ここにいるという状況は、「不思議の国の森の中で迷子になっている状況だ」ということは、明確にわかる。だから、ここから脱して、「どこか」へ行かなければならない。それだけは確かだ。だから、歩いていかなければならない。「どこか」を言語化することが間に合っていなくても。歩いて、名づけられない「どこか」へ到達するしかない。「どこか」に到達さえすれば、次の「どこか」を目指すことができるようになる可能性を信じて。

つまるところ、アリスは私のほうだったのだ。そして、私はあれだけ勉強したはずだったが、目からうろこなんて実際には落ちていなかったのだ。あるいは、落ちたうろこをもう一度嵌めざるを得なかったのかもしれない。おかげで視界は曇っている。森の中で五里霧中を歩んでいる。でもこの見え方が<現実>なのだ。きれいだけど存在しない<現実>を夢見ることに、ビジネス上の価値はない。ある日ウサギの穴に落っこちる。ここがどこなのかよくわからないし視界も不良だ。不思議の国の冒険は不意に始まる。けれどもこの格好の悪い<現実>から、ビジネスは始まっている。


私は、大学時代に文学部でフランス思想をかじっていた。その中で学んでいたのは、サルトルの実存主義である。大学で学んだ諸々の難しい哲学は、あまりにも難しく、当時の私の頭では理解しきれないものも多かった。あれから時も経ち、今は、当時理解できて、かつインパクトの強かったエッセンスしか、頭の中には残っていない。その中でもやはり印象深いものといえば、『実存主義とは何か』の有名な一説である。

「実存は本質に先立つ」
「主体性から出発せねばならぬ」
「人間は最初は何ものでもない」
「人間は自らが造ったところのものになる」
「人間はまず、未来に向かって自らを投げるものであり、未来の中に自らを投企する(projet)ことを意識するものである」

ハサミは、切るという本質的な目的があって存在している。つまり、ハサミは、本質が実存に先立っている。人間はハサミと違う。人間には、何か本質的な目的があって存在しているわけではない。実存が本質に先立っているのだ。このことに人間は不安を覚える。本質がないのに先に実存してしまっている。自分の在り方が自由であるいうことは、実際不安なことなのだ。だが、この不安に向き合わなければならない。不安に向き合って、自らを創りださなければならない。それが人間というものだ。

大学生らしいもやもやを抱えた私には、実にこの思想は刺さったものだった。今から考えれば、この程度の理解であれば、「サルトルである必要は必ずしもなく」、ちゃんとした自己啓発本なら全然代替できるくらいの理解だった、と言えなくもない。「あなたは、あなたの創り出すところのものになるのです。あなたは、主体性を持ち、自分の現実を創り出しましょう。そして自己実現しましょう。」これくらいのことなら、20世紀後半を代表するフランス思想の巨人の口から、わざわざ言う必要なんてあるだろうか?

実際のところ、サルトルの「自己啓発本的な効用」は、否定できないと思う。サルトルに勇気づけられ、「吐き気を催しながら」実存の不安に向き合い、主体性を持って自らの現実を創り出すことに邁進してきた若い人はたくさんいると思われる。私もその一人である。だが、やはりこの思想の巨人は、そこいらの自己啓発本の著者なら絶対にしなさそうな言葉遣いをしているのだと思う。

投げる/projeter、だ。英語のプロジェクト/projectと、フランス語のprojet、動詞の投げる/projeterは同根の言葉である。「投げる」か。いい言葉だな、と思う。「的確に表現しているな」という意味と、「美しく表現しているな」という意味で、そう思う。

プロジェクトは、目的と目標があって、それのためにリソースと計画があるもの。……そのはずである。本質が実存に先立っているはずである。しかし、いろいろな経緯が絡み合って、そうでないプロジェクトはたくさん存在しうる。「実存が本質に先立っているプロジェクト」……? そんなプロジェクトは、あり得るのだろうか? 「アジャイル」という言葉ではおしろいをまぶしきれない、ラディカルな問いがここにある。そして、実存が本質に先立っていたとしても、我々は、実存の不安に向き合いながら、本質を見つけていかなければならないのだ。

プロジェクトは、計画に基づき、リソースを使って、一歩一歩進めるもの。……そのはずである。教科書的には。しかし、現実には、プロジェクトは、一歩一歩、地上を進まない。どうしようもなく、プロジェクト(projet)は、「投げられている(projeté)」。プロジェクト・マネジャーやプロジェクト・マネジメント・オフィスの権限の及ぶ範囲を超えたところから。そして、「投げられた」プロジェクトは、そこにかかわる人が投げ入れられることを、佇み、待ち、そして投げられたものを受け止めるかと思いきや、別のところにずれ、そして別の場所でまた人が投げ入れられることを、何食わぬ顔で待っている。私は、そこに投げ入れられ、そして未来にむけて自らも自らを投げ入れていく。私は、地上を一歩一歩歩むというより、空を舞い、空中で吹く風に晒されて多少着地地点をぶらしながら、着地する。たまに100点の着地をしたり、たまによろけたり、たまに着地失敗しながら。

私は空を舞う。プロジェクトメンバーも空を舞う。投げているのだから。その危うさとスリリングさのことを思う。サルトルが「投げる」という言葉を選んで言いたかったことって何なのだろう。それは、計画通りにも思い通りにもいかない現実に際して、我々がとらざるを得ない、真剣で勇敢な試み、その危うさとスリリングさのことじゃないのか、などと思ったりする。

今日も明日も私は自分を未来の中に投げ続ける。投げて、落ちた、その先を見るために。
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