昔から中島敦の『文字禍』が好きだ。この短編小説については、どこかまた別にも書いてみたい。
物語は、主人公ナブ・アヘ・エリバ博士が、学問を愛する王の命を受けて「文字の霊」の研究を始めるというものだ。博士は研究を通じて、文字が人間に与える悪影響に気づく。それに気づいてしまった博士は、文字の霊の攻撃にあうかの如く、王の不興を買って地位を追われ、最終的には死んでしまう。
博士が発見した「文字が人間に与える悪影響」とは何か。それは、文字に頼りすぎることによって、記憶力などの能力が減衰したり、世界をありのままに知覚する能力が減衰すること。はたまた、文字にならなかったことはそもそも「無かったこと」にされてしまうという支配力、それも「文字の霊」の恐ろしい力であると語られる。
物語の中に「書物狂の老人」というのが出てくる。
およそ文字になった古代のことで、彼の知らぬことはない。彼はツクルチ・ニニブ一世王の治世第何年目の何月何日の天候まで知っている。しかし、今日の天気は晴か曇か気が付かない。彼は、少女サビツがギルガメシュを慰さめた言葉をも諳んじている。しかし、息子をなくした隣人を何と言って慰めてよいか、知らない。彼は、アダッド・ニラリ王の后、サンムラマットがどんな衣装を好んだかも知っている。しかし、彼自身が今どんな衣服を着ているか、まるで気が付いていない。
ナブ・アヘ・エリバ博士は、このような、学を愛しすぎたがゆえに、現実と接しなくなってしまった男のことを、「文字の霊」の犠牲者だと認識し、「文字の霊」の恐ろしさについての確信を強めていく。
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AIの世界に、「記号接地問題」という概念があることを知った。
ChatGPTは、ある単語とある単語の関係性を膨大な量学習することで、概念を獲得している。例えば「ネコ」という単語と「ペット」「とがった耳」「バランス感覚」「甘いにおい」などの単語に関連性があることを理解している。ChatGPTは、こういった様々な単語の関連性のなかで「ネコ」という概念を理解しているのだ。
しかし、ChatGPTの持っている概念は、あくまで言語的なものに過ぎない。どれだけ「ネコ」という概念に関連する他の概念を持っており、それらを使って「ネコ」を説明できるとしても、ChatGPTは実物のネコを見たこともなければ鳴き声を聞いたこともない。
つまるところ、AIが持つ概念は、言語(記号)の世界に閉じられており、実世界と結びついていない。このことを、記号接地問題という。AIは、身体性をもって、現実に対して”接地”していないのだ。
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「記号接地問題」という概念を学んで、私は中島敦の『文字禍』を思い出した。思うに、AIというのは、この物語の中の「書物狂の老人」のようなものではないだろうか、と。ありとあらゆることを知っているが、しかし現実とは直に触れていない男。綺麗な答え、正しい答えは出せても、血が通い体温を乗せた答えは出せない男。記号接地問題を抱えているAIと、そんな男の姿は重なって見える。
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として考えてみると、人間としての強みはなんなのだろうか。やはり、AIにははない、身体を持っていることではなかろうか。
人間は身体に引きずられるがゆえに、疲れるし、誤る。感情に左右される。しかしながら、人間には感情があるから、方便を使うことも、「粋なこと」をすることもできる。
AIだって誤る。だが、その誤りは「ハルシネーション」であって、身体性に起因するものではない。AIが「人間味のある間違い」をすることはない。「人間味のある嘘」をつくこともない。AIの過ちはあくまで「機械のエラー」だ。
どうも、私はにはここに希望があるように思える。人間にしかできないことはまだまだあると。
AIは希望なのか、脅威なのかみたいな議論は尽きない。今の仕事は、この職業は、AIに代替されるのではないか。そういう議論も尽きない。
私としては、AIが希望なのか脅威なのか、今の仕事がAIに取って代わられるのか、代わられる前に逃げ切れるのか、それがどちらであれ、ポジティブに考えてやっていくしかないというスタンスだ。だが、ポジティブにやっていくためにも、何が人間に残される(可能性の高い)領分なのかは考えておくべきだ。何が人間に残される領分なのか。それは身体なのではなかろうか。
身体を持っていること。それはそのままそっくり、人間としての弱みでもある。身体を持っていないこと、それはそのままそっくり、AIの強みでもある。しかしそれでもなお、身体を持っていることは、人間にとっての残された希望の領分なのではなかろうか? 私にはそう思える。
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AIが身体性を持って、実世界の事象を学ばない限り、記号接地問題はあり続けるのだ。しばらくのところは、この疲れやすくなった、老いから逃れられない、身体と付き合おうじゃないか。
