2025/07/05

AIの記号接地問題と書物狂の老人

昔から中島敦の『文字禍』が好きだ。この短編小説については、どこかまた別にも書いてみたい。

物語は、主人公ナブ・アヘ・エリバ博士が、学問を愛する王の命を受けて「文字の霊」の研究を始めるというものだ。博士は研究を通じて、文字が人間に与える悪影響に気づく。それに気づいてしまった博士は、文字の霊の攻撃にあうかの如く、王の不興を買って地位を追われ、最終的には死んでしまう。

博士が発見した「文字が人間に与える悪影響」とは何か。それは、文字に頼りすぎることによって、記憶力などの能力が減衰したり、世界をありのままに知覚する能力が減衰すること。はたまた、文字にならなかったことはそもそも「無かったこと」にされてしまうという支配力、それも「文字の霊」の恐ろしい力であると語られる。

物語の中に「書物狂の老人」というのが出てくる。

およそ文字になった古代のことで、彼の知らぬことはない。彼はツクルチ・ニニブ一世王の治世第何年目の何月何日の天候まで知っている。しかし、今日の天気は晴か曇か気が付かない。彼は、少女サビツがギルガメシュを慰さめた言葉をも諳んじている。しかし、息子をなくした隣人を何と言って慰めてよいか、知らない。彼は、アダッド・ニラリ王の后、サンムラマットがどんな衣装を好んだかも知っている。しかし、彼自身が今どんな衣服を着ているか、まるで気が付いていない。

ナブ・アヘ・エリバ博士は、このような、学を愛しすぎたがゆえに、現実と接しなくなってしまった男のことを、「文字の霊」の犠牲者だと認識し、「文字の霊」の恐ろしさについての確信を強めていく。

AIの世界に、「記号接地問題」という概念があることを知った。

ChatGPTは、ある単語とある単語の関係性を膨大な量学習することで、概念を獲得している。例えば「ネコ」という単語と「ペット」「とがった耳」「バランス感覚」「甘いにおい」などの単語に関連性があることを理解している。ChatGPTは、こういった様々な単語の関連性のなかで「ネコ」という概念を理解しているのだ。

しかし、ChatGPTの持っている概念は、あくまで言語的なものに過ぎない。どれだけ「ネコ」という概念に関連する他の概念を持っており、それらを使って「ネコ」を説明できるとしても、ChatGPTは実物のネコを見たこともなければ鳴き声を聞いたこともない。

つまるところ、AIが持つ概念は、言語(記号)の世界に閉じられており、実世界と結びついていない。このことを、記号接地問題という。AIは、身体性をもって、現実に対して”接地”していないのだ。

「記号接地問題」という概念を学んで、私は中島敦の『文字禍』を思い出した。思うに、AIというのは、この物語の中の「書物狂の老人」のようなものではないだろうか、と。ありとあらゆることを知っているが、しかし現実とは直に触れていない男。綺麗な答え、正しい答えは出せても、血が通い体温を乗せた答えは出せない男。記号接地問題を抱えているAIと、そんな男の姿は重なって見える。

として考えてみると、人間としての強みはなんなのだろうか。やはり、AIにははない、身体を持っていることではなかろうか。

人間は身体に引きずられるがゆえに、疲れるし、誤る。感情に左右される。しかしながら、人間には感情があるから、方便を使うことも、「粋なこと」をすることもできる。

AIだって誤る。だが、その誤りは「ハルシネーション」であって、身体性に起因するものではない。AIが「人間味のある間違い」をすることはない。「人間味のある嘘」をつくこともない。AIの過ちはあくまで「機械のエラー」だ。

どうも、私はにはここに希望があるように思える。人間にしかできないことはまだまだあると。

AIは希望なのか、脅威なのかみたいな議論は尽きない。今の仕事は、この職業は、AIに代替されるのではないか。そういう議論も尽きない。

私としては、AIが希望なのか脅威なのか、今の仕事がAIに取って代わられるのか、代わられる前に逃げ切れるのか、それがどちらであれ、ポジティブに考えてやっていくしかないというスタンスだ。だが、ポジティブにやっていくためにも、何が人間に残される(可能性の高い)領分なのかは考えておくべきだ。何が人間に残される領分なのか。それは身体なのではなかろうか。

身体を持っていること。それはそのままそっくり、人間としての弱みでもある。身体を持っていないこと、それはそのままそっくり、AIの強みでもある。しかしそれでもなお、身体を持っていることは、人間にとっての残された希望の領分なのではなかろうか? 私にはそう思える。

AIが身体性を持って、実世界の事象を学ばない限り、記号接地問題はあり続けるのだ。しばらくのところは、この疲れやすくなった、老いから逃れられない、身体と付き合おうじゃないか。

2025/06/17

まずい


初心を忘れていないと言うべきなのか、やることが学生の頃からさっぱり変わっていないだけなのか。夜のファミレスに籠って本を読むなり、こうやって文を書くなりという習性が、高校生や大学生の時分からずっと変わっていない。

なぜファミレスでなければならないのか。ファミレスでは、自宅や図書館で発揮するのとは別の種類の集中力が発揮できるからだ。ファミレスにはノイズがある。BGMが、呼び出し音が、客の会話が飛び交っている。

サイゼリヤは、ファミレスの中でもトップクラスにうるさい。サイゼは、あまりにもうるさすぎるから、家族連れ客のドタバタ騒ぎも、オジサンオバサン達の談笑も、学生さんの大はしゃぎも、すべてが渾然一体となってノイズになる。だから、隣の客の声も、その渾然一体の中に消失する。

デニーズではこうはいかない。デニーズくらいになると、隣の客の話が面白かったら、そっちに関心がいってしまう。ガストもジョナサンもちょっと違うし、たまに身動きが取れなくなっている猫ロボットがいようものなら、そっちに気を遣ってしまう。まったく、手のかかる猫め。

思うに、このサイゼの高出力ノイズは、他のチェーン店ではなかなか出せない。私の体調やテンションと、その時の客のバイブスがバッチリはまると、この高出力ノイズは、私をトランス状態ともいえるような集中力の発揮に、導いてくれる。

私は良く通うサイゼに、レベルの高い合格点を超えるバイブスをオールウェイズ出してくれる期待をしている。でも、この体験は私と他の客のコンディションの掛け合わせなのだから、一回性がある。私のほうが高出力ノイズに耐えられないときもあるし、客入りが悪ければ出力が下がって隣の客の話も聞こえてしまう。つまり、サイゼとは、生きもの。ライブ会場なのだ。


今日も今日とて、おかわり自由のコーヒーをがぶ飲みしながら、右手にフォークを、左手に文庫本を装備する。目線は本に向けながら、上の空で小エビのカクテルサラダの、カクテルの部分とレタスを数枚、フォークで突き刺す。口に運ぶ。カクテルって結局なんなんでしょう。でもたぶん、あの部分。あの部分が、カクテルの部分であり、ディアボラの部分なのでしょう。

カクテルってこんな味でしたっけ。さすがに学生時分からは舌が肥えたのか、それともサイゼリヤがコストカットしたのか。カクテルってこんなふにゃふにゃしてましたっけ。

こんな感じで本を読みながらダラダラとサラダを食べていると、レタスも細切れの人参も、甘いドレッシングを吸ってふやけてくる。そもそもレタス、最初からシャキッとしていなかったぞ。最終的には、濡れた紙を食べているみたいになってしまった。

まずい。

こんなことを、もう20年も続けているんだな。

2025/06/14

「PERFECT」な人生

劇団俳優座にて、瀬戸山美咲さん作・演出の「PERFECT」を観劇。

本作品を貫くテーマの一つは、「出生前診断」であるが、このテーマについては、どうしても自分語りになってしまう。

私の妹は、ダウン症であり、先天的に心臓病を持ってこの世に生を受けた。従って、私はこの作品のテーマに対し、極めて当事者性が強い。

「障害」というテーマ。もしお腹の中にいる子どもの障害が、生まれる前に分かったら、その後どう考え行動するか。このテーマは、実に、私の人生においてずっと影を落とし続けてきた。私は、最近になって、「きょうだい児」という言葉を知った。きょうだい児とは、障害や難病を持つ兄弟・姉妹がいる子どものことである。私が子どもの頃には、このような言葉や概念はなかったと思う。だが、私は子どものころからずっと、きょうだい児であったのだ。

「きょうだい児」として、障害を持つ子供を育てるということが、決して綺麗事ではいかないという現実を肌身で知っていること。杞憂かもしれないし、大した科学的知見も学んでいないが、親が同じなのだから、もしかしたら遺伝的な問題があるかもしれないということ。すなわち、私が子どもをもうけるとしても、同じような障害を持つ子どもが生まれる可能性は、「普通」(この普通はもちろんかぎかっこ付きである)よりも高いのかもしれないこと。そういったことは、私にとって、根の深いところで恐怖であり続けた。

それが、私を、子どもを持つという考え、結婚、また、そもそも恋愛をすることからすらも、遠ざけ続けた。

ある時、しなければという焦りに駆られて結婚相談所で「婚活」を始めた。しかしそれでもなお、その根源的な恐れから、私は解かれていなかった。

平たく言うと、子どもをもたない。あるいは、子どもをもつにしても、出生前診断をしてほしい。その結果によっては、かの選択肢も、選択肢の一つとして選びうるものとして、相談するかもしれない。殺人だと言われても仕方がない。障害者の差別だと言われても仕方がない。障害者の兄なのに。でも私は、障害の、難病の、綺麗事ではない現実を知っている。それを経験してきた。私は、あなたと、生まれてくる未来の子どもを、私が子どもの頃に経験したような辛さや苦労に巻き込みたくない。そのためには、綺麗事だって、かなぐり捨てる。

所詮「婚活」という、造作された場なのだ。もしお付き合いを深めていき、本格的に将来のことを語り合う時がきたら、その時、この話は必ずしなければいけない話なのだ。

そのため、私はつとめて、「マッチング」してお付き合いが始まった早めのタイミングで、この話を伝えてきた。多くの女性は、やはり子供は「普通に」ほしい、あるいは婚活の場でそんなことは考えたくない、重たい話なんてしたくないと思い、その後の深いお付き合いに至る前に去っていった。

それでもなお、お付き合いできた女性がいた。彼女も「普通に」子どもを授かり、「普通の」家庭を築きたい人であった。私は変わらず恐怖を抱えていた。それでも、「もしかしたら彼女との関係は、それを乗り越えるに値するかもしれない」、「私は、彼女との付き合いを通じて、自分を変えていけるのかもしれない」。彼女は、そう思わせてくれる人であった。

私は自分の思っていることを、お付き合いの途中で話した。彼女は、私の「異常な」話も、静かに聴いてくれた。

私は、自分の「子どもをもつ」という恐怖を強引にでも握り潰して彼女と結婚し、彼女の希望を叶え、子どもを持つ未来を描くのか、自分の思う「子どもをもつリスク」を、「普通に子どもが欲しい」彼女に納得させるのか、天秤にかけていた。天秤は拮抗していた。そして、私は、自分の「子どもをもつという恐怖」を乗り越えること、打ち克つことこそが「愛」なんだと、自分と彼女に言い聞かせ、拮抗して動かない天秤を操作しようとしていた。今なら冷静に語ることができるが、こんな天秤の操作は「重たい」に決まっている。最終的には、彼女は私を離れていった。

私は、子どもをもうけるのか。子どもをもうけるにあたって、誰かといわゆる「家族」という名のパートナーシップを築くのか。今でも答えは出ていない。出さないでいい状況を作っているからだ。だから答えが出ていなくて当然なのだ。

同年代の友人が結婚し、子どもをもうけ、「家族」を新しくつくっていくなかで、私は、ひたすらに仕事に打ち込み、自分のビジネス、自分のプロフェッションを追求した。

PERFECT」の中の登場人物で、河西という人物が登場する。登場時点では、番組制作スタッフの一員であり、音声係という仕事に徹しているだけに見える人物である。最初の印象は飄飄とした人物である。劇中、河西は、兄がダウン症であると明かす。そして、その後の物語――青木夫婦の夫婦間の対話に、一石を投じる役を担う。

私は、観劇中、登場人物で私の境遇に一番近いのは河西だと思い、彼と自分とを重ね合わせながら観ていた。

彼は、劇中に登場するボリビアのチョビ髭のオジサン姿の福の神、エケコ人形になぞらえて、こういうことを言う。「自分はこのオジサンに願いを叶えてもらうより、むしろ、自分がこのオジサンでありたい。」。

私は、河西と自分を重ね合わせて観ていたからこそ、このセリフにはドキリとさせられるものがあった。

オジサンは誰かのためになることをする。誰かにとっての福の神となり、願いをかなえてあげる。しかし、それは完全に慈善活動というわけでもなく、きっちりちゃっかり、タバコという「報酬」も貰うものであることが示唆されていたからだ。

私は、ビジネスを通じて世の中に貢献し、きっちりと高い報酬も要求する「ゲーム」を、これまでも楽しんできた。それは、私にとって、恋愛という営みや、結婚、家族という営みをする代わりに、十分なりえるものだ。実際のところ、「やるのがそこそこ得意だ」ということと、「やったら成果が返ってくる環境がある」という二つの条件がそろっているというのは、私にとって幸いなことだ。だから、私はビジネスというゲームに前向きにのめりこんできた。

ドキリとしたというのは、仕事に真面目な様子の河西に、自分の姿勢を言い当てられてしまったような気がしたからだ。

本当はわかっている。「私が仕事に前向きだ」というのは、「ビジネスパーソンとしての優秀さ」をすなわち意味するのではない。私が仕事に前向きなのは、単に、仕事をしている間は、それ以外の恐怖に目を向けなくて済むからだ、と。仕事は、時として憂鬱だ。だが、その憂鬱さがどうしても必要なのだ、、、、、、、、、、、、、、、、

歳を重ねていくなかで、別の恐怖がわきあがってくる。いつまで憂鬱でいられるのかな。いつまで憂鬱でいさせてくれるのかな。仕事から引退したら、何を生きがいにしたらいいのだろ。結婚もしなかったら。結局子どもも生涯もたなかったら。今はいいけど、仕事にやりがいを感じなくなるときがやってきたら、どうするのかな。

でも、それでいいんだよね。そういう恐怖がわきあがるってこと、それ自体、それでいいんだよね。そういう恐怖がわきあがる時点まで、走りぬけてきたのだからね。最近になってやっと、そう思えるようになってきた。

積み重ねた過去の判断から作られた現在は、常に「完璧PERFECT」である。

私がもう少し若かったら、「PERFECT」に通底するこのメッセージを、受信できなかったかもしれない。

積み重ねた過去の判断から作られた現在は、常に「完璧PERFECT」である。そのことをまず認めることから、未来を始めることである。

積み重ねた過去を断ち切って「完璧PERFECT」を目指すという「革新への覚悟」は、「諦め」がその正体をカモフラージュした姿であることが、時としてあること。威勢のよさ、勢い、「正論」に注意すること。

私はこの作品を通じてそんなメッセージを受け取った。

また、「天秤」の両端に掛けるものを変えずに、強引に片方を操作しようとして誤った経験のある私には、河西の、「天秤に掛けるものを変えてみたら」というアイデアは、極めてプラクティカルな助言ともなった。

結果は、出すものではない。

結果は、すでに出ているものである。そして、出続けているものなのである。そしてそれらは、「完璧PERFECT」なのである。さて、それを前提として、この不格好な人生、どうやって腐らず前向きに走り抜けていくか。結果はその先に「出る」ものであるはずだ。

自分にとって、よいタイミングでこの作品に出合い、観ることをできたことを、幸運に思う。この作品を創っていただいた瀬戸山さん、俳優の皆さん、その他関係者の皆さんに感謝を申し上げたい。

なぜ学ぶのか

なぜ学ぶのか。

学びは、人を自由にすると、私は信じています。

学べば学ぶほど、知見は広がり、できることも広がり、やれることの幅が広がる。つまり、人生における選択肢が増え、人生における可能性が広がります。

もし学ばないなら、知見は狭く、できることも狭く、やれることも今と変わらないままです。もし、今やっている仕事が嫌だったり、正直辞めたいと思っていたりしても、選択肢の少なさゆえに、それをやらざるを得ない、という状況に閉じこめられ続けることになります。

私は後者のような人生を送るのは嫌です。

私は自由でありたい。だから、学ぶんです。私にとって、学ばないなんて選択肢は、ないんです。


――という趣旨の話を、外資系コンサルティング会社にいたころに、同僚にしたことがある。


その会社で働いているときのことだ。同僚の一人が、退職することになった。彼女が退職の挨拶で、私の話したこの話を、これまでで印象に残っていることの一つだとして話してくれたのを覚えている。彼女は、「学ぶということの意義・理由をうまく言葉にできなかったのが、私の話によってクリアになった」「子どもに対しても、学ぶことの意義を伝えたい」と言った。


光栄だ、と思うのと同時に、少しかたじけなかった。ほんの少しの間だけ同僚であっただけの私の言葉が、お子さんにも教育論として伝えられてしまうとは。なんだか気恥ずかしいような、責任があるような。でも、私は、本当に言ったようなことをそう思っているのであって、それが響いたのであれば、どうぞ、使ってください。――やっぱりちょっと恥ずかしいけれど。


けれども。この「なぜ学ぶのか」への私の回答が、誰かの心に響いたのだとしても。それでもなお、私は問い続けたい。なぜ学ぶのかの答えは、「それだけ」なんだろうかと。



私は、今38歳である。一体あとどれだけの年月が、神さまから私に与えられた時間なのかは、私の知ったところではない。だが、感覚的には、「人生の中間地点は過ぎた、あとは折り返しだ」と私は思っている。(こればかりは感覚論なので、自分の中にしかその理屈はないが。)


さて、齢四十も近くになって、ひしひしと感じているのは、新しいものやことを学ぶことへに必要となるエネルギーの大きさが、指数関数的に大きくなっていくということだ。


原理的に考えて、年齢を重ねるほど、新しく学んだことの可用期間は減っていく。


例えば、20代で英語を必死に勉強して、ビジネスで不自由無いくらいの水準に達したとする。その能力を、ビジネスから引退する70代まで使える、とする。


英語の能力を活用できるのは、上の仮定と変わらず、引退する70代までだとすると、50代で英語を必死に勉強して、不自由ない英語力を獲得したとしても、汗水を垂らして新しく学んだことから得られる<利益>を享受できる期間は、20代の時に比べてグンと短くなる。


<労力>と<利益>を天秤にかける皮算用は、ビジネスパーソンなら毎日やっていることだ。人生、中間地点も過ぎてしまえば、<労力>と<利益>を天秤にかける合理性、合理的思考こそが、何かを新しく学ぶことを、遠ざける(A)。


また、これは仮説にすぎないが(そこらへんの科学的エビデンスについて詳しくないので、感覚論に過ぎないが)、やはり齢四十も近くなってくると、集中力は若いころに比べて劣ってくるように思う。自分で思い出しても、私の10代のころの集中力は、確かに高かった。それに比べると、持続性が劣ってきている感覚がある。身体的な限界、という問題がここに付きまとう。


また、身体的な阻害要因以外にも、時代が進んだこと、我々を取り巻くテクノロジーと文化の問題もあると思う。たとえば、携帯がなかったころから、携帯が当たり前の時代へ、ガラケーからスマホの時代へ、どんどん時代は進んできた。


こちらの能動性とは関係なく、完全にあちらのペースで、LINEはピコピコ鳴り、スマホは震える。ただひたすらに、24時間、「繋がっている」状態が、作りだされている。


能動的な行為のはずなのに、能動的ではない、のような、我々をゾンビみたいにする技術もあふれている。本当にどうでもいいのに、ショート動画を上にスワイプし続けて、いつの間にか頭の中が、人のことを中毒にするのに特化した音楽みたいなのでいっぱいになっている。集中力という希少なエネルギーは、どんどんと頭のいい技術者とビジネスパーソンによって、浸食されていく。


つまるところ、身体的な制約から考えても、我々を取り巻く環境から考えても、新しく何かを学ぶためのエネルギーである集中力は、減衰し続ける。新しく何かを学ぶための<労力>、コストは、歳をとるごとに増していく(B)。


また、齢四十も近くなると、会社なり社会なりで、ある程度の地位と報酬を得ている人口の割合も高くなってくるだろう。私もそれなりに会社員というものを続け、キャリアを重ねてきた。それなりの職位とそれなりの年俸をもらっている。そして、現在の職位と年俸をいただく基礎を作ったのは、間違いなく「勉強」だった。もっと若いころは、私はしょうもなく弱い立場と、満足のいかない年俸に甘んじていた。それに強い劣等感があった。強い劣等感が、私を「学び」へ駆り立てた。ギラついていた。キモいくらいに勉強した。そして、何社かを経験しながら、ある程度の立場と、報酬を得られるようになった。これは私だけの話ではないはずだ。「不足感」「不満足」は強いエネルギーを生み出す。とするなら、「充足感」「満足」は、何かを新しく学ぶエネルギーの減衰の要因になり得るのではないか。


「足るを知る」という古の賢人の言葉が、それっぽく<大人>に語り掛ける。これ以上、もう何を望むというのだ? <労力>と<利益>を天秤にかけて、「これ以上」を望むより、「今のこれ」を守り続けるほうが「いい」と考えられるとき、合理的に考えて、どうして汗水たらして学んで、「これ以上」を望む必要があるのだろうか (C) ?


A―「学び」から得られる<利益>の受益期間の減少

B―「学び」をするのにかかる<労力>の増加

C―「これ以上」を望む理由の減衰


少し考えただけでも、この三つくらいの要因が思いつく。そしてこういった複数の要因が複合的に絡み合った結果、新しいものやことを学ぶことへに必要となるエネルギーの大きさは、「一次関数的に」どころではなく、「指数関数的に」大きくなる。


このようにして、「学ばない理由」は、人生の後半になればなるほど、合理的かつ指数関数的に、積みあがっていく。



何が言いたいのかというと、「なぜ学ぶのか」への回答を、もし、職業人生を優位に送るための利得を念頭に置いたもののみに限るなら、その回答の合理性には遅かれ早かれ限度が来るだろう、ということだ。


思うに、私がこの投稿の冒頭で言っていたような「なぜ学ぶのか」の理由は、子どもや、20代の若いビジネスパーソンには有用かもしれない。


A―「学び」から得られる<利益>の受益期間が長く、

B―「学び」をするのにかかる<労力>も壮年層・老年層に比べたら比較的少なく、

C―現状に飽き足らず「これ以上」を望む理由もたくさんある


からだ。


しかし、その「学ぶ理由」だけでいいのか。その「学ぶ理由」だけだったら、いつか、「学ばない理由」のほうが、「学ぶ理由」のほうを上回り、打倒するときが来るかもしれない。そして、感覚的にしか言えないが、私にとっては人生の折り返し地点だと思っている<今>が、「学ばない理由」のほうが、「学ぶ理由」のほうを打倒するタイミングなのではないか。そんな気がするのだ。私は、学ぶのが比較的好きな方だし、得意な方でもあるという自覚がある。しかしそれでもなお、利得への期待のみに立脚した「学び」は、もう早晩通じなくなるだろう。そういう感覚が自分の中にあるのだ。



以上の危機感を踏まえて、38歳時点での、「なぜ学ぶのか」への暫定的な答え。


私は、毎日世界と出会いなおしたい。毎日新しい眼鏡をかけて、世界を新鮮な見方で見たい。今日も明日も明後日も、見える世界が同じなのは退屈だ。新しいことを学ぶこと、知っている学びをさらに深めることは、世界をこれまでなかった切り口で見るための視座を与え続けてくれる。あたり前じゃない世界に、毎日驚いていたい。だから私は学ぶんです。


利得と合理性の殻を突き破り、狂気と非合理の彼方へ、私は行きたい。たぶんその先は、利得と合理性の世界よりは、わりと愉快な世界なんじゃないかな。


これが私の暫定的な答えです。


さて、私の話が印象深いと言ってくれた元同僚の彼女は、どうやったらこの文を読んでくれるのかな。

2025/06/09

投げる/projeter

会社において、とある大きなプロジェクトの、プロジェクト・マネジメント・オフィスという、プロジェクト・マネジャーの補佐をやっている。

プロジェクトというものが往々にしてそうであるように、私が携わっているこのプロジェクトも、「未知との戦いの連続」である。「未知との戦いの連続」と表現するのはあまりにも「きれい過ぎる」だろうか。「格好良すぎる」だろうか。まあ、実際のところは、そんなにきれいなものでも、格好良いものでもない。

プロジェクトが動き始めたとき、明確なゴールなどは決まっていない。決まっているわけがない。なぜなら、プロジェクト・マネジャーをやることになる人よりもはるかに上層から大方針が下りてきて、その大方針がそのまま「なんとなく」「ゴールのようなもの」となって始まるからだ。プロジェクト・マネジャーは、ある日それをやってくれと言われ、巻き込まれる。方針とゴールは厳密には別物のはずだ。しかし、それに異議を唱える間もなく、プロジェクトは、巻き込まれる人が、望むと望まざるとにかかわらず、宿命として、始まってしまう。明確なゴールも、そこへたどり着く道も見えない。動けというプレッシャーはとにかく、来る。実際、とにかく動いてみないと、何もわからない。そして、動いているうちに、自ら動いた結果、また、自らの動きとはまったく関係のない外からの圧により、そもそも蜃気楼のようなゴールポストが、さらに動き続ける。

こういったプロジェクトの「格好の悪い現実」に対して、「最初からちゃんと決まっていないのが悪い」「だからうまく進められない」と愚痴をこぼすのは、あまりにも簡単なことだ。私も10年前の若造であったら、おそらく愚痴ばかり言う役になっていたかもしれない。若造は、実に頭でっかちで、実践と実際を知らなかった。英語圏の書物を読み漁り、体系的なプロジェクトマネジメント理論やら、ガント・チャートやらWBSといったツールや方法やら、論理的で洗練されたアイデアにかぶれた。勉強するほどに、目からうろこが落ちて、理想は高くなる。その高くなった「理想」という視座からすれば、プロジェクトというものは、美しく、整然とこなされるべきものに他ならず、そうなっていないプロジェクトというものは、理論から外れたまがいものに他ならなかった。

勉強する過程で、何気なく読んだ本があった。『予定通り進まないプロジェクトの進め方』という本だった。「プロジェクトとは、そもそもうまくいかないようにできているものである」「やったことのない仕事の“勝利条件”は事前には決められないのである」「だからこそ、進行の局面局面において、現時点において設定している“勝利条件”と“中間目標”そして“施策”とのつながりをマップとして図示し、常に振り返り、更新し続けよ」――本は、プロジェクトの「格好悪い現実」を踏まえて、こう説いていた。

読んだ当初、正直私はピンとこなかった。なんで、局面局面でそんなに振り返ったり、図(著者はプロジェクト譜、略してプ譜と呼んでいる)を書き換えたりしないといけないのだ。それはあまりにも非効率なのではないか。非効率なのはなぜか。所詮計画がない「まがいもの」であるからだ。その時はそう思った。だから、私はこの本を売り払ってしまい、しばらくこの本のことを忘れていた。

様々な学びに言えることだと思うが、時が満ちてやっと受け入れられるようになるものというのは存在する。実際のところ、私がこの本を思い出したのは、冒頭に書いたプロジェクトに携わることになったからだ。私の前にある現実は、「そもそもうまくいかないようにできている、しかしそれでもなお「うまくいく」を定義し、「うまくいく」にむけて動かなければならぬ」プロジェクトだった。そこには、洗練さも格好良さもない。しかし、それは「まがいもの」ではなく、本当のこととして、まさに関係者の前に現前していたのである。愚痴をこぼしている暇などなかった。そして私は再びこの本を手に取ったのだった。


「お願いだから教えてほしいの。私はここからどっちの道に行くべき?」
アリスはチェシャ猫に尋ねました。
「それは君がどこに行きたいかによるね」
とチェシャ猫。
「どこに行きたいかなんてどうでもいいの――」
「それなら、どこに行こうとも問題ないじゃないか」
「――「どこか」に行けさえすればどこでもいいの」
「おや、そうかい。それなら、ただずっと歩いて行けば、必ず「どこか」へはたどり着くはずさ」

「不思議の国のアリス」のチェシャ猫のすっとぼけが私は大好きである。さて、この話をクライアントとコンサルタントの話に置き換えたとき、チェシャ猫とは「のらくらした不親切なコンサルタント」で、アリスとは「迷えるクライアント」なのだろうか?

クライアントは実際のところ、自分がどこへ行きたいのか、何を目指しているのか、きちんと言語化できていないことが往々にしてある。コンサルタントは、クライアントのことをクライアントよりも考え抜き、クライアントの「行きたい場所」を言語化し仮説としてぶつける。そういう世界観に立つならば、チェシャ猫はコンサルティングワークを放棄している、ということになる。しかしながら、比喩はそんなに簡単ではないと思う。

「チェシャ猫は、自分の考えるアリスの「行くべき道」を押し付けなかった。あくまでアリスから内発的に「行きたい場所」が発されるまで、自分のエゴを押し付けない、アリスの主体性を信じたコーチであった。」

という解釈が一つ、ありうるだろう。これは、確かにもっともらしく、説明も付けられそうだ。

だが、コンサルタントとして、クライアントとともに悩み抜き、ともに行動するなかで、私にはなにかしっくりくる解釈がある。

「コンサルタントは、アリスでもある。」

コンサルタントだって、最初から、明快な答えやゴールがわかるわけではない。不思議の国にいる。不思議の国の森の中にいる。今ここにいるという状況は、「不思議の国の森の中で迷子になっている状況だ」ということは、明確にわかる。だから、ここから脱して、「どこか」へ行かなければならない。それだけは確かだ。だから、歩いていかなければならない。「どこか」を言語化することが間に合っていなくても。歩いて、名づけられない「どこか」へ到達するしかない。「どこか」に到達さえすれば、次の「どこか」を目指すことができるようになる可能性を信じて。

つまるところ、アリスは私のほうだったのだ。そして、私はあれだけ勉強したはずだったが、目からうろこなんて実際には落ちていなかったのだ。あるいは、落ちたうろこをもう一度嵌めざるを得なかったのかもしれない。おかげで視界は曇っている。森の中で五里霧中を歩んでいる。でもこの見え方が<現実>なのだ。きれいだけど存在しない<現実>を夢見ることに、ビジネス上の価値はない。ある日ウサギの穴に落っこちる。ここがどこなのかよくわからないし視界も不良だ。不思議の国の冒険は不意に始まる。けれどもこの格好の悪い<現実>から、ビジネスは始まっている。


私は、大学時代に文学部でフランス思想をかじっていた。その中で学んでいたのは、サルトルの実存主義である。大学で学んだ諸々の難しい哲学は、あまりにも難しく、当時の私の頭では理解しきれないものも多かった。あれから時も経ち、今は、当時理解できて、かつインパクトの強かったエッセンスしか、頭の中には残っていない。その中でもやはり印象深いものといえば、『実存主義とは何か』の有名な一説である。

「実存は本質に先立つ」
「主体性から出発せねばならぬ」
「人間は最初は何ものでもない」
「人間は自らが造ったところのものになる」
「人間はまず、未来に向かって自らを投げるものであり、未来の中に自らを投企する(projet)ことを意識するものである」

ハサミは、切るという本質的な目的があって存在している。つまり、ハサミは、本質が実存に先立っている。人間はハサミと違う。人間には、何か本質的な目的があって存在しているわけではない。実存が本質に先立っているのだ。このことに人間は不安を覚える。本質がないのに先に実存してしまっている。自分の在り方が自由であるいうことは、実際不安なことなのだ。だが、この不安に向き合わなければならない。不安に向き合って、自らを創りださなければならない。それが人間というものだ。

大学生らしいもやもやを抱えた私には、実にこの思想は刺さったものだった。今から考えれば、この程度の理解であれば、「サルトルである必要は必ずしもなく」、ちゃんとした自己啓発本なら全然代替できるくらいの理解だった、と言えなくもない。「あなたは、あなたの創り出すところのものになるのです。あなたは、主体性を持ち、自分の現実を創り出しましょう。そして自己実現しましょう。」これくらいのことなら、20世紀後半を代表するフランス思想の巨人の口から、わざわざ言う必要なんてあるだろうか?

実際のところ、サルトルの「自己啓発本的な効用」は、否定できないと思う。サルトルに勇気づけられ、「吐き気を催しながら」実存の不安に向き合い、主体性を持って自らの現実を創り出すことに邁進してきた若い人はたくさんいると思われる。私もその一人である。だが、やはりこの思想の巨人は、そこいらの自己啓発本の著者なら絶対にしなさそうな言葉遣いをしているのだと思う。

投げる/projeter、だ。英語のプロジェクト/projectと、フランス語のprojet、動詞の投げる/projeterは同根の言葉である。「投げる」か。いい言葉だな、と思う。「的確に表現しているな」という意味と、「美しく表現しているな」という意味で、そう思う。

プロジェクトは、目的と目標があって、それのためにリソースと計画があるもの。……そのはずである。本質が実存に先立っているはずである。しかし、いろいろな経緯が絡み合って、そうでないプロジェクトはたくさん存在しうる。「実存が本質に先立っているプロジェクト」……? そんなプロジェクトは、あり得るのだろうか? 「アジャイル」という言葉ではおしろいをまぶしきれない、ラディカルな問いがここにある。そして、実存が本質に先立っていたとしても、我々は、実存の不安に向き合いながら、本質を見つけていかなければならないのだ。

プロジェクトは、計画に基づき、リソースを使って、一歩一歩進めるもの。……そのはずである。教科書的には。しかし、現実には、プロジェクトは、一歩一歩、地上を進まない。どうしようもなく、プロジェクト(projet)は、「投げられている(projeté)」。プロジェクト・マネジャーやプロジェクト・マネジメント・オフィスの権限の及ぶ範囲を超えたところから。そして、「投げられた」プロジェクトは、そこにかかわる人が投げ入れられることを、佇み、待ち、そして投げられたものを受け止めるかと思いきや、別のところにずれ、そして別の場所でまた人が投げ入れられることを、何食わぬ顔で待っている。私は、そこに投げ入れられ、そして未来にむけて自らも自らを投げ入れていく。私は、地上を一歩一歩歩むというより、空を舞い、空中で吹く風に晒されて多少着地地点をぶらしながら、着地する。たまに100点の着地をしたり、たまによろけたり、たまに着地失敗しながら。

私は空を舞う。プロジェクトメンバーも空を舞う。投げているのだから。その危うさとスリリングさのことを思う。サルトルが「投げる」という言葉を選んで言いたかったことって何なのだろう。それは、計画通りにも思い通りにもいかない現実に際して、我々がとらざるを得ない、真剣で勇敢な試み、その危うさとスリリングさのことじゃないのか、などと思ったりする。

今日も明日も私は自分を未来の中に投げ続ける。投げて、落ちた、その先を見るために。